おじさんは京都検定をめざす > tomoyankikaku の記事

京都の歴史 江戸時代

江戸に幕府が開かれると、京都には京都所司代が置かれて、朝廷の動きに監視されるようになりました。

当時の天皇たちの生活は、京都御所や仙洞御所からうかがうことができます。
どちらも江戸時代に再建されたのです。

荘厳な住まいですが、政治の表舞台から遠ざけられたさびしさも感じられるかもしれません。

江戸初期の文化

太平の世の中で新しい文化を育んだのは、上方(大阪や京都)の町人でした。
狩野探幽(かのう たんゆう)や本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、俵屋宗達(たわらや そうたつ)といったすぐれた芸術家が現れました。

そして書画や美術工芸品、庭園などの作品を残しました。

また、西陣織が隆盛をきわめ、新しく友禅染の手法も確立され、京都独特の文化が花開きました。

明治維新

幕末の京都では、激動の時代を象徴する事件が相次ぎました。尊攘派の薩摩藩士たちが殺された伏見の寺田屋や、長州藩と幕府藩と幕府軍の戦いの場となった京都御所の蛤御門などには、当時の刀傷や弾痕が残っています。

やがて、二条城の大政奉還発表をへて、時代は移って行きました。

二条城は、徳川将軍家の威信をしめすために作られました。それから約260年後、二の丸御殿で大政奉還の発表が行わられたのです。

京都の歴史 安土桃山時代

こんにちは、
よしおです。

京都の歴史の安土桃山時代です。

天下統一が完成するまで、京都では戦国大名たちの血なまぐさい駆け引きが続きました。
織田信長が討たれた本能寺跡、豊臣家と徳川家の争い、大坂冬の陣のきっかけとなった方広寺の梵鐘、伏見城の廊下を利用した血天井(養源院ほか)など、重要な史跡が残っています。

桃山文化

新興大名や貿易商人らの手によって、自由でいきいきとした文化が生まれた時代です。
戦国大名の城は山城から平城にかわり、狩野派らによって襖や屏風が彩られていました。蒔絵などの工芸品が発展し、出雲の阿国が歌舞伎をひろめたのもこの頃です。

■高台寺の北政所をまつっている霊屋(みたまや)の厨子にほどこされている見事な蒔絵。

■西本願寺の唐門は、桃山時代の代表的な建築物。伏見城から移されました。

■龍源院は、重要文化財に指定された室町時代の方丈、唐門、表門をもつ大徳寺の塔頭のなかでももっとも古い寺。

京都の歴史 室町時代

こんにちは、
よしおです。

室町時代の京都について簡単にご説明します。

室町時代の文化は、公家文化と武家文化がとけあい、禅宗の影響も受けた時代です。
その中でも特に北山文化(14世紀末)の鹿苑寺金閣と、東山文化(15世紀後半)の慈照寺銀閣が有名です。

大徳寺の大仙院には、書院造の方丈(居間)や、狩野派による花鳥図の襖絵、日本有数の枯山水庭園などがあり、この時代の文化が凝縮されています。

のちに千利休が、豊臣秀吉に「三福のお茶」をたてた場所でもあります。


■鹿苑寺足利義満がたてた金閣。1950年(昭和25年)に全焼しましたが、5年後に再建されました。


■慈照寺銀閣。足利義政が建てた銀閣。銀箔を貼る予定だったので、この名前が付きました。


■大仙院。

応仁の乱

応仁の乱は、幕府内の権力争いが、やがて京都市中を焼け野原にするほどの大乱と戦乱。
幕府内の権力争いというのは、文正二年(応仁元年・1467年)御霊杜で畠山家惣領の座をめぐって畠山政長と義就の合戦が発端となり起こったものです。

畠山家の内紛のみならず、足利義政の将軍後継、斯波家の内紛などが複雑に絡み合っていました。

幕府内では、細川勝元方の東軍と山名宗全方の西軍の両軍に分かれ、以降10年にもおよぶ争いとなったのです。

この争いの間、社寺への放火などによって、多くの仏典宝物も失われました。この結果、室町幕府は弱体化し、全国に戦乱は飛び火。
下剋上の戦国時代に突入していくのです。


■相国寺。応仁の乱で東軍が布陣した相国寺。この戦で焼失してしまいました。現在の本堂は江戸時代に再興されたものです。


■西陣の街並み。西陣という地名は、応仁の乱の時、西軍の陣地があったことに由来しています。

画像提供:京都フリー写真素材

京都の歴史 鎌倉時代

京都の歴史の鎌倉時代についてです。

1180年から85年に掛けて源平の戦いがあり、平家が衰退し、1192年源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉時代が始まりました。

京都では、貴族だけではなく、地方の武士たちも文化の担い手となりました。
彫刻などの美術品は、平清盛坐像や空也上人像のように、力強く写実的なものが作られました。

また、源平の戦いなどの戦乱が続き、社会が不安定だたため、民衆にもわかりやすい新しい仏教が次々に誕生しました。

釈迦信仰の大報恩寺の本堂は、1227年(安貞元年)の創建当時の姿をそのまま今に残しています。

1221年の承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱です。

鎌倉時代 六波羅探題

武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いででしたが、これにより、鎌倉幕府は、京都に朝廷を監視する六波羅探題を設置しました。
六波羅蜜寺周辺の六波羅の地には、かつて平家一門の豪邸が立ち並んでいました。
ここは平家の興亡と貴族政治の衰退を見守った場所なのです。

空也上人が創建した六波羅蜜寺。寺の宝物館には、平清盛の坐像が残されています。
↓ ↓ ↓
六波羅蜜寺

画像提供:京都フリー写真素材

京都の歴史 平安時代

こんにちは、
よしおです。

なんだかんだと昨年12月に京都検定二級を受けてから4ヵ月が経ちました。
今年の試験まであと8ヶ月。のんびりしておられません。

そこで歴史についてチェックして行きたいと思います。
ということで、平安京遷都から行きたいと思います。

京都の歴史 平安京遷都

平安京の朝廷が移された時から、明治天皇の東京行幸までの間、京都は日本の政治や文化の中心的存在でした。

いまでこそ京都は”風情のある古都”といった、静かなイメージで語られることの多い京都です。
しかし、その歴史を紐解けば、たびたび歴史を動かす大事件の舞台となりました。
表れては消える権力者たちと、次々に生まれる新しい文化や宗教が、長い長い時間を掛けて、健在の京都を作り上げたのです。

京都検定で一級を目指す僕としては、そんな歴史の記憶が刻まれた、名所や史跡を尋ねて行きたいと思います。

華やかな記憶もあれば、残酷な記憶もあります。
それらを辿るうちに教科書でしか知らなかった歴史上の人物出会ったり、重大事件の現場に立ち会ったり、まるでタイムスリップしたような感覚になります。

1200年の時の流れを実感することとなると思います。

平安京の面影は、神泉苑と東寺に見ることが出来ます。
どちらも姿かたちはかなり変わってしまましたが、位置は当時と同じです。

また、現在の千本通りが、平安京のメインストリートだった朱雀大路(すざくおおじ)です。
ここを真っすぐに進むと平安京の入り口、朱雀門に着きました。
現在は、その跡に石碑が建っています。

京都の歴史 国風文化

平安時代は、それまでの唐風文化から日本風つまり国風の文化に移り変わった時期です。
これは、遣唐使の廃止によるものです。
遣唐使は、日本が唐に派遣した使節で、日本側の資料では、唐の皇帝との同等の交易・外交をしていたという姿勢ですが、唐側は、倭国からの朝貢としての使いという認識だったようです。

中国は、618年に隋が滅び唐が建ったことで、それまでの遣隋使から遣唐使という言い方になりました。

遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家、官僚、僧、芸術工芸など多くのジャンルに人材が携わりました。

され、その遣唐使は、894年に56年ぶりに行われようとしましたが、藤原道真のより、唐の混乱と日本文化の発達を理由に廃止となりました。実際この10数年後の907年には唐は滅びています。

ただ遣唐使は200年以上に渡り、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大きく貢献しました。

平安時代は、遣唐使の廃止もあり日本文化が豊かになった時代です。
かな文字の発生と華麗な貴族文化、浄土教の流行などがその特徴です。
紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』といった優れた文学が生まれ、平等院の阿弥陀如来像など、優美な美術品も盛んに造られました。

写真提供:京都フリー写真素材

プロフィール

ともやん企画よしお。1957年生まれ、富山県富山市出身。大学入学で上京し、40年以上、東京と横浜で生活。20代に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んで感動し、バイクを飛ばし龍馬のお墓参り。以来、京都に憧れ定年を機に京都検定を受けようと思い立つ。
2020年12月に初めて2級に挑戦。不合格になるもより京都検定に対する思いを深めた。

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