京都の歴史 室町時代
こんにちは、
よしおです。
室町時代の京都について簡単にご説明します。
室町時代の文化は、公家文化と武家文化がとけあい、禅宗の影響も受けた時代です。
その中でも特に北山文化(14世紀末)の鹿苑寺金閣と、東山文化(15世紀後半)の慈照寺銀閣が有名です。
大徳寺の大仙院には、書院造の方丈(居間)や、狩野派による花鳥図の襖絵、日本有数の枯山水庭園などがあり、この時代の文化が凝縮されています。
のちに千利休が、豊臣秀吉に「三福のお茶」をたてた場所でもあります。
■鹿苑寺足利義満がたてた金閣。1950年(昭和25年)に全焼しましたが、5年後に再建されました。
■慈照寺銀閣。足利義政が建てた銀閣。銀箔を貼る予定だったので、この名前が付きました。
■大仙院。
応仁の乱
応仁の乱は、幕府内の権力争いが、やがて京都市中を焼け野原にするほどの大乱と戦乱。
幕府内の権力争いというのは、文正二年(応仁元年・1467年)御霊杜で畠山家惣領の座をめぐって畠山政長と義就の合戦が発端となり起こったものです。
畠山家の内紛のみならず、足利義政の将軍後継、斯波家の内紛などが複雑に絡み合っていました。
幕府内では、細川勝元方の東軍と山名宗全方の西軍の両軍に分かれ、以降10年にもおよぶ争いとなったのです。
この争いの間、社寺への放火などによって、多くの仏典宝物も失われました。この結果、室町幕府は弱体化し、全国に戦乱は飛び火。
下剋上の戦国時代に突入していくのです。
■相国寺。応仁の乱で東軍が布陣した相国寺。この戦で焼失してしまいました。現在の本堂は江戸時代に再興されたものです。
■西陣の街並み。西陣という地名は、応仁の乱の時、西軍の陣地があったことに由来しています。
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